コラム

〈コラム No.15〉“分からない”の価値・塩梅(あんばい)

「新妻さんの言っていることが分かりません。。」クラブハウスでの対話の一幕です。

新妻「“分からない”こと自体に価値があります。今すぐ分かろうとせずに何度もアーカイブを聴きなおしてください」

Aさん「ますます分からないです。。」

新妻「日本語には“わかる”に相当する言葉がたくさんあります。分かる、解る、知る、識る、悟る」

「『わかった!』と思った時点で終わりです。意識が止まってしまいます」

「分かろうとすることの推進力そのものが生命力です。いつまでも『わかった!』とは思わずに“わかろう”とし続けてください」

Aさん「。。。。」


現代は「小学生でもわかる〇〇」といった形でわかりやすく表現されたものがたくさん世に出回っています。テレビでは難しい番組はなく、誰でも分かるようなものばかりです。

大衆に向けて放送されているものなので無理もないかも知れません。しかし分かりやすいものは、奥行きがなく、どうしても浅くなりがちです。

人生には分からないことが絶対的にあります。人間様がどうあがいても絶対に分からないことが存在しているのです。

一人の人間が分かっていることは微々たるもの。生まれてから死ぬまで、人はわからないものだらけの中で生きていきます。

それが素晴らしいと思いませんか?

 

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すべてを理解することが大切なのではなく、わからないことと出会っていく、そのプロセス自体が素晴らしい。

わからないことに、もどかしく感じる場合もきっとあるでしょう。でも人生の大半はそもそもわからないまま進んでいく。

自力でコントールできる部分はほんのわずか。

ところが、科学は口癖にように「ここまで分かった!現代科学!」といった表現が用いられています。

確かに科学は進歩しているのでしょう。

しかし、人々が自分の人生を本当に理解するようになっているのかと言えば、むしろ逆行しているかもしれません。

科学的に何かの解明が進めば進むほど、人々の人生はかえって分からなくなっていっているとしたら?

なにごとも“塩梅”(あんばい)といいます。

分かることが重要で、分からないことが悪い状態ではないのです。

「あ!分かった!!」という体験は大切。ですが、わかり続けていくこと、解明し続けていくことが大切なわけではありません。

「分からないもの」「得体の知れないもの」「未知のもの」を解明できていなくとも、それらを丸ごと愛せる器こそが大切です。

人はわかったと思うほど、その後にコントロール欲を作り出します。そうして物事を工夫しすぎてしまいます。

あくまで塩梅がポイントになります。

よく分かろうとすること同時に、スッと一歩引いて、明るく開いて待つ。

すると「なんだかよく分からないんだけど…」という人智を超えた働き、計らいが起き始めます。

分からないことと、分かることが常に生活の中で同居していることはとても良いことです。

「私はよく分かっている」と思っているとしたら、その人は余程盲目的に、部分的に、あらゆる物事を締め出して、井の中の蛙として生きているのでしょう。

分からないこと自体に前向きであること、そして分からないものを歓迎して、その中で楽しく四苦八苦する。

こうした姿勢の中で私たちの命には少しずつ“中庸物質”が生成されていきます。

これは一つの秘密ですが、実はこういった物質こそが、あなたがあなた自身の人生の状況の中から抽出した、かけがえのない成分なのです。

人生を歩む上で本質的に価値があるのはこういったものなのです。

あなたの身の回りには今、分からないものはどれくらいありますか?それらを前向きに分かろうとされていますか?

 

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