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【コラム】テニスの聖地・全仏で起きた意識の奇跡──テニスとスピリチュアルの交差点

今回の全仏オープンの決勝ではカルロス・アルカラス選手が2連覇を飾りました。

決勝戦では対戦相手のシナー選手に対してあと一点落としたら負け、というマッチポイントの場面を3度凌ぎ、大逆転勝利。

この試合直後から2025年の男子決勝戦は、テニス史に残る名勝負だったと称賛の嵐でした。

メンタルを貫いた「疑わなかった」という一言

さて、テニスは非常に「メンタル」なスポーツだと言われています。

ジム・レーヤーの「メンタルタフネス」やティモシー・ガルウェイの「インナーテニス」などテニスのプレー中の心理的傾向を研究してまとめた名著も多くあります。

このテニスが、「メンタルなスポーツ」という点で、私がこの試合で注目したのはアルカラス選手の優勝後、インタビューでのシンプルな発言です。

「今日は一度も自分を疑わなかった」

私はこの一言「疑わなかった」にアルカラス選手のテニスプレーヤーならず、人間としての「意識の純度」を上げた姿勢を見ました。

遡ること約9ヶ月前、舞台はパリオリンピックのテニス決勝戦。

ここでアルカラス選手はBig3と言われているレジェンドのノヴァク・ジョコビッチ選手と対戦し負けてしまいます。

当時、アルカラス選手優勢と考えられていましたが、ジョコビッチ選手が自分にとっておそらく年齢的に最後になるであろうオリンピックで「絶対に勝ちたい」という気迫が勝り、押し切られてしまったのです。

その時、アルカラス選手が、悔し涙を流しているシーンが私には印象的でした。才能や年齢、勢い的にも自分が圧倒的に優位だと感じていたはずです。

確かにジョコビッチはレジェンドかもしれないが、直前のウィンブルドンでも勝っている。自信を持ってオリンピック決勝に臨んでいたはずです。でも勝てなかった。

おそらくあのパリオリンピックの決勝で、アルカラス選手はジョコビッチ選手がなぜレジェンドなのか、なぜ歴代最高のテニスプレーヤーと言われているのか、その理由を肌感覚ではっきりと受け取ったはずです。

それが「自分を疑わない力」


レジェンドの信仰と“霊的な領域”との接続

ジョコビッチ選手はセルビア正教の本をいつもテニスバッグに持ち込み、「祈りの力に何度も助けられた」という言葉を残しています。

つまり、ジョコビッチ選手は勝敗を決定づける瞬間、極限の状況下で、その精神的支柱に、霊的なエネルギーが流れていることを明言しているわけです。

一方で、アルカラス選手がこのような霊的、宗教的思想を持っているかどうか、これはこれまでの発言からは分かりません。

しかし、長年テニス界を牽引してきたジョコビッチ選手は、その背景に「スピリチュアルなパワー」を存分に活用してきた。

そうした「信念」と「信仰」の通った人間との、極限での対戦を幾度も重ねることで、

アルカラス選手もまた、勝負の紙一重の瞬間にこそ、技術やテクニックを超えた「霊的な領域」が働いていることを何度も感じてきたことは間違いないでしょう。

だからこそアルカラス選手にもまた、現実的に崖っぷちに追い込まれている状況になった時に、小細工を弄せず堂々たる「確信あるテニス」をプレーする、根源力が身に付いてきたのです。

今回の全仏オープンでは自分がレジェンドとの度重なる勝負によって体感してきたこと、痛感してきた要素を確実に押さえてプレーすることができた。

私にはこのたった9ヶ月間で、アルカラス選手がまるで別人になったかのように見えましたし、実際に波動はすっかり変わっています。定まっている。

「今日は一度も自分を疑わなかった」、というアルカラス選手の発言の背景に、私が観たのは、

「(パリ五輪の時は自分を疑ってしまったけれど、)今日は自分を疑わなかった」という過去の「心の揺れ」を乗り越えた、透き通った青年の姿でした。

信じる力が現実を変える

そして、このような心の状態、いえ、この場合は「意識の水準」といいましょう。こうした意識を作ることができるかどうかは、実はあなたにとっても大切なことです。

別にスポーツ選手でなくとも、人生の場面場面で私たちは自分を「疑ったり、信じたり」というその往来のなかで生きていくからです。

「なぜ疑ったのか、信仰の薄い者よ」

新約聖書のマタイによる福音書14章31節

という言葉は、イエスが弟子のペトロに対して述べた場面として有名です。

このシーンではイエスが湖の上を歩いて、弟子たちの舟に近づいたとき、弟子ペトロは「主よ、もしあなたでしたら、水の上を歩いて、私をあなたのところに行かせてください」と言います。

そこでイエスが「来なさい」と言うと、ペトロは水の上を歩き始めます。

しかし風を見て怖くなり、沈みかけてしまいます。そのときペトロは「主よ、助けてください!」と叫びます。

イエスはすぐに手を伸ばして彼をつかまえ、言いました:

「なぜ疑ったのか?信仰の薄いものよ」

この言葉は、信じて進みながらも、途中で恐れによって信仰が揺らいだペトロに対するイエスからの愛ある指摘でした。

まさに「信仰とは、状況に関わらず信じ続けること」であり、疑い=恐れ=沈む原因として描かれています。

・水の上を歩く
・テニスの世界大会で優勝する

いずれにしても「現実離れ」しているような印象を受けるかもしれません。しかし、その本質は至ってシンプルであり、「自分が心に見ているものを信じて疑わずに行動している」というだけのことです。

このシンプルで純真な意識を作る。

そのために、人は日常生活で経験してきた様々な猜疑心や誘惑、常識的な考えや統計、傾向、期待を手放して、自らの意識を一つに統一していくことが求められます。

内なる信仰が、人生のすべてを支える

外側の状況、勝負において崖っぷちであったり、強風に煽られていたり、または周囲には敵ばかりで、あなたは四面楚歌のように感じていたとしても、

私たちの人生の本質は、自他の比較でも、結果の奪い合いでもありません。外部に敵はおらず、ただ求められるのは、自分自身への混じり気のない「信仰」だけです。

不安に思うこと、焦りが止まらない、怖い…
こうした気持ちがあること自体は自然なことです。

しかし、生きる中で、こうした感情を少しずつ「濾して」扱い慣れていき、自分の意識をより上質なものに整えていくことがスピリチュアルな歩みと言えるでしょう。

もし今、あなたが“風”に煽られているのなら、思い出してください。

「スピリチュアルに生きる」とは、外の状況に揺さぶられない、内なる“絶対安心”の確信を育むこと。

そして、その静かな確信こそが──
あなた自身を、家族を、組織を、そしてすべての未来を支える揺るぎない柱となっていくのです。

このような静寂と集中の空間は、私たち一人ひとりの内側にもあります。その内なる空間へ、今こそ足を踏み入れてみませんか?

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